1963 Theoretical Physics
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1.
1963
Theoretical physics
1963年
理論物理学
1963年4月、私は東京都立川市にある東京都立立川高等学校に入学した。高校は旧国鉄立川駅を南口でおり、徒歩10分のところにあり、1901年明治34年、府立二中として創立された古い学校であった。立川駅は都心から西約30㎞にあり、八王子駅とともに、多摩地域の中心となる駅である。
入学式当日は、満開の桜が校門の外にまで美しく散っていたことを、昨日ののようにおぼえている。校門の左側に、むかし使われていた門衛所があり、中央玄関の手前、向かって右側に大正天皇来臨時のお手植えの松があった。校内にはいくつかの古い建物が残っていて、そのいくつかは私の在学中もまだ実際に使われていた。
門衛所は校門の左側にあり丸屋根の古風な建物で、門衛さんはもちろん今はいなかったが、夜は定時制課程もあったので、夕方になると明かりが灯り、中に夜の守衛さんがいることがよくあった。サッカー部に入った私も帰るときは、守衛さんにさよならを言った。
1学年400名で、男子のみであった旧制中学の名残りとおもわれるが、男子300名・女子100名であった。私は一年と三年は男子クラス、二年の時のみ男女クラスだった。土足のままの教室は、コールタールの匂いのする黒ずんだ木製の床の古い電車のようであった。入学後間もない放課後、男子のみで教室と廊下を清掃したことがあった。すると事務室から女性の職員が飛んで来て、皆さんは何をしているんですかと、驚いたような表情をみせたので、私たちはそれで、ああこの学校は掃除をしなくてもいいんだなと確認し、ほとんどのものが、多分それ以後一度も掃除をしなかったのではなかったかとおもう。
三年のときの親友、金子に至っては、まったく一度も掃除をしたことがなかったと、へへへと笑いながら私に言った。 三年間で私がもっとも楽しかったのは、大学受験で大変であったはずなのに、三年のときだった。三年になって初めて一緒のクラスになった金子と二人で、教室の一番後ろの廊下側に最も近い、出入りでうるさい席で一年を過ごした。
なぜそうなったのか、今は仔細を思い出せないが、もしかしたら、静かな良い席は自然にうまって、あまりそういうことを気にしなかった金子と私が残りの席にすわることになったのかもしれなかった。しかしそのおかげで、まるで弥次喜多道中のような、自由で楽しい一年となった。
私たちの後ろには四角いゴミ箱があって、前の方にいるものが、特に、使った数学の計算用紙を座席から空中を経て私たちの後ろのごみ箱に投げるので、かなりの数が箱にはいらず、そのあたり一面に散ることになった。それがひどくなっても、だれも始末しないので、しかたなく私がゴミ箱に入れて捨てに行った。金子はもちろん一度も行かなかった。
丘陵と林と畑がまだ七、八割ほどを占めていた人口2万ほどの東京の西北端に近い小さな町に育った私は、朝、駅まで自転車で行くことが多かったが、雨の日は徒歩もあり、林の中の道で足裾が濡れるので、長靴を履いてゆくことがあった。そうすると教室で、金子に「田中、その恰好だけはやめてくれよな、こっちが恥ずかしくなる」とよく言われた。確かに、校舎の中で一日中どたどたと歩いているのは、強雨のときでもほとんどいなかった。そんな私だった。
金子は数学が得意だった。私が難問とする問題を、彼は確実に解いて私に伝えた。私がほぼ対等であったのは、多分英語だけだった。彼はいつも、くっつけるように右横の机にいて、「田中、千円札持ってるか」と言った。「持ってるわけないよ」と答えると、「そうか、俺なら透かしの部分で解けるんだけどな」と私をちゃかした。
私たちG組ははっきりと限定されていた訳ではないが、数Ⅲ、物理・化学、日本史・世界史が授業科目となっていたので、多くが理数系志望であった。金子は化学を志望し、私は物理を志望していた。理論物理学だった。 私は、一年秋頃から理論物理学への強いあこがれを持つようになっていた。私が最もあこがれていたのは、朝永振一郎先生だった。先生の「帯独日記」をいつ読んだのか、今ははっきりと確認できないが、ドイツに滞在しながら、多くの著名な物理学者や俊秀とともに新しい理論物理学の構築を目指していた、その姿に魅了されていた。
1965年秋、朝永先生のノーベル物理学賞受賞が報じられた翌朝、始業前のひととき、私たちG 組では、その話題が金子と私の席に近い後ろの黒板のあたりでおしゃべりとなった。クラスの一人が、おれ、先生と親しい人を知っているんだ、と嬉しそうに言っていたことを今もおぼえている。
はるかに後年、私が文字に内在する時間を主題としていたとき、朝永先生のノーベル賞受賞の一つの核となった超多時間理論を整理する必要を感じ、西島・ゲルマン理論で知られる西島和彦先生の論考を参考として、シュレディンガーからディラックを経て朝永に至る超多時間理論の数学としての厳密な道筋を理解できたときは、高校以来の長い宿題を解き終えたような安堵感をおぼえた。
西島先生はこの論考を雑誌に発表したのち、まもなく亡くなられたことを新聞で知った。先生の絶筆に近いものであったとおもう。私は西島先生の学恩を感ずる一人となった。先生のこのときの論考の表題は「ディラックと場の量子論」『数理科学』2007年9月号 15頁―20頁 サイエンス社 2007年、であった。
そうした私が京都大学理学部を強く志望したのは自然だった。しかしG組の中で京都を志望していたのは、多分私一人だった。京都は私にとっては厳しい選択であったが、在学中変わることはなかった。
1966年3月、私は初めて乗る東海道新幹線で京都に向かった。その頃折に触れて少しずつ読んでいた、筑摩書房版野上素一訳のダンテの『神曲』一冊を携えていた。 試験の結果、金子は東大理Ⅱに無事合格したが、私は京大理学部20名に不合格だった。
京都大学は当時、高校経由で、試験の採点結果を教えてくれていたので、しばらくしてから送付してもらった。結果的にはもう少しであったが、今おもえば、私の当時の実力では、もし入っていたとしても、理論物理に進むのは苦しかったであろう。ただ得点上は他のいくつかの学部では、合格可能であったことも知った。こうして私の高校生活は終わった。
「おまえの所とたいして変わらないけどな」と誘ってくれた金子の家に、高校卒業後も幾度か訪ねた。多摩丘陵のふもとの坂道は、夏になると夾竹桃の紅の花が美しかった。彼は大学を終えると、希望していた化学系の研究者となった。
私の方は長い Winding Road を経て、ようやく追及する主題とその方法を見い出し、「おまえ、まだそんなことやってるのか」と言われるだろうが、久しぶりに彼と再会したいとおもったとき、彼はすでに他界していた。50代のなかばだった。私はかけがえのない、生涯の友を失った。
TOMONAGA'S SUPER MULTI-TIME THEORY RESTING ELBPWS NEARLY PRAYER